昭和47年2月5日 朝の御理解

御神訓
一 人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみな人。



教えを頂けばいただくほど、えー、ここのところを、よーく、分かって、えー、行くわけであります。けれども、なんと言うても、やはり、一番大事なのはわが身である。ね。わが身よりも、人のほうが大事という事はない。一番大事なのはわが身である。けれども、やはり、んー、人もまた大事である。そこん所の思いが、段々強うなってくる。それが、私は、えー、神心は強うなってくるという事だと思う。ね。段々、信心を手厚うさせて頂いておりますと、これは、んー、人の身だけの事ではありません。ね。それは、あー、犬やら猫でも同じ。植物でも同じ。そういう、例えば、心が使えれるようになるけれども、そのためには、やはり、私自身、わが身自身が、おかげを受けなければならない。助からねばならない。良く聞くことですけれども、先ず、私が助からなければ。先ず、私がおかげを頂かなければ。あー、人は助けられん。人に、まあ、お話をすることも出来ん。自分が、先ずおかげを頂かなければ。というように言う人もあるけれども、まあ、そういう言い方も、たんまいな事であってですね。ほんなら、本当に助かるという事が、どこまでが助かりなのか。まあ、猛々しそうに、銘々の助かり、わが身大事とを、思わんものはありません。その、わが身の上におかげを受けて、そして、そのおかげを受けた程度で、やはり、人もまた、あー、大事であるということ。ところが、段々、その、んー、自分の身がおかげを頂いてまいりますと、えー、人の事なんか、一つも大事に思わないような人がある。勿論これは、信心でないからでありますけれども、私、今日、ご神前で頂いたことは、もう、寒いから、沢山の着物を、もう、着膨れするほど着てる。まん丸なるように着てる。ね。あんまり着膨れする、着とるもんだから、自分で自由、自分自身の事由さえ利かんでおるというような状態のところを御神願いに頂いた。ね。言うなら、おかげを頂きすぎて、かえって、自分自身が身動き出来んようになってしまっておる。そういう助かり方では、自分すらも助かっていないし、人も助ける、人の身が大事という事が分かっても、大事にすることすら出来ません。それは、今日、この、御神訓の、ここのところを頂きました。またそれに関連、今日、頂くところに関連しておるのでしょうか、今朝方の、お夢の中にも、何かそんなことを頂いた。何か、私は、大体、もう、本当に、全然出ませんですね。皆さん、ご承知のように。ところが、昨日は、こう、散歩に出ているところを頂いた。教会の、どうも周囲がこう、町になっておって、こう一遍通り廻るとまた、教会さん帰ってこられるというので、様な道をこう歩いておるのです。そしたらあの、よう、今、あー、立ち食いのうどんやさんが、あっちこっち出来ておりますね。あらここに、久しぶり出てきたら、こういううどんやさんが出来ておる。丸い提灯が下がっておって、うどんという。そして、湯気が立ってから、いかにも美味しそうにしてる。私が、大体が、麺類が好きですから、おなかも少しすいてるから、ここで、うどん一杯頂こうかなと思うたけど。やれやれ、待て待て、えー、もう一遍通り廻りゃ、自分とこの家に着くのだから、もう家に帰って頂こう、勿体ないから。というて、そこを通り過ぎておるところであった。そしたら、丁度、何か、丁度、雨降りあげくの、夕べは、大変雨が降ったという感じなんです。丁度、電話ボックスの、昔のボックスのようなとこの中に、いー、十ぐらいな息子の子が、学生服を、もう、びっしょり濡れて、その、電話ボックスの中に、こうやって寝てるんです。そして、しくしく泣く声がするから、ちょっと覗いてみたら、顔が見えませんけれども、もう、いわゆる、もう、こごえ死によるような感じなんです。まあ、かわいそうに、いー、いわゆる、孤児(みなしご)だろうかと思うてね。私は、電話ボックスから、それを、その子供を抱きかかえて、教会に帰ったところで目が覚めた。抱いてきながら、あの、早くお湯を沸かさせよう。そして、布団をはよしけと、言おうと、いろんな事を思いながら、その子供を抱いてきとるところであった。私は、目が覚めてから、本当に、世の中にはね。こういうような人が沢山あるだろうと思うんです。品質の中退。もう、それこそ、夕べの雨で、じっくり、もう濡れてしまって、しかも、その寒空に、あの、おー、電話ボックスの中に、こうやって、様なところの中へ寝て。身動きも出きんでおるといったような、ね。こりゃ、私が頂いたのは子供ですけれども、そういう難儀な状態でおる人が沢山あるだろうと思う。ね。あるですよ、ね。お金がないからだけじゃない。お金がありすぎても、そういう人があるですよ。お金がのうて、そういう苦しみをしている人も有ります。ね。人間関係で、そういう苦しみをしておる人もある。ね。もう、このまま、ほっときゃ助かりようがないというような人が沢山ある。そういう、助かりようのないような人達が沢山あるのですから、私共が、やはり、力を受けなければならない。おかげを受けなければならない。人もわが身もみな人なのですから。ね。と言うて、ほんなら、如何に人が大事だからと言うて、自分自身が瀕死の重態であって、人を助けることは出来ませんよね。信心させていただいて、段々、神心が強うなる。私は、どういうわけ、そのうどん屋の前を通ったり、通って、そこのところを、私が、あー、うどんを食べようかなと思ったけど、いやいや、勿体ないから、家帰って食べようといったような事が、どうして出てきたのかなと、後から思うて見たのですけれどね。これは、例えば、そんなら、今、私が、お金を出して、うどん一杯食べるくらいな事ならば、言うなら、訳ない事。誰もとがめる者もいない。ね。けれども、何時も私の心の中には、勿体ないという心が何時もある。如何に自分が助かっておっても、どんなに自分が沢山持っておっても、例えば。ね。それを、何時も、この勿体ないという心で押さえ、しかも、その勿体ないという心で押さえた、その、抑えられたそれをもって、神心となって人を助けて行こうという。そういう事だと、私は思うた。ね。自分が飲みたい放題、食べたい放題、いうなら、贅沢のし放題、助かっておる。それでその余りで人を助けるといったような事では、可笑しいですね。ね。それでは、本当の助かりにはならんと思うです、私は。絶えず、信心させて頂く者の心の中には、言うなら、段々、神心が強うなってくる。その神心の内容としてはです。ね。何時も、私は、勿体ない、ね。このようなおかげを頂いて勿体ないという心があるところに、うどん一杯でも、ね。例えば、言うなら倹約して、そこはうどん屋の前を素通りして、そこに、濡れしぼたれになって、もう今、入院しようかというような子供を抱きかかえて、教会に連れて帰ってきておるという事。ね。それと、反対に、私の、今日、御神願に頂いたのは、着膨れしておる。おかげを頂き過ぎること頂いておる。それでいて、自分自身が、いうなら、苦しんでおる人達が、世の中には沢山あるということです。ね。沢山お金を持っておるから、夜も日も眠られんという人があるんですよ。はっは、あ、もっとる人に限って、大体、けちんぼが多いですもんね。ね。それこそ、これに火を灯すようにして貯めたんですから。やっぱり、けちんぼが多い。ね。だから、始末、倹約、けれどもその、ね。何のために、助からなければならないか。何のために、始末、倹約しなければならないのか。それは、ね。神様が喜んでいただくような御用に使うて頂く事のために、始末、倹約しておるのだ。人が助かることのために、始末、倹約しておる。いや、人をまた、自分と同じように、大事にしたいために、始末、倹約しておるのだ。
ね、自分が、贅沢のし放題して、そして、余ったら人を助けようといったようなのでは、信心じゃないと思うですね。人もわが身もみな人なんです。けれども、それが分かっておっても、それを信心によって、例えば、分からせていただいてもです。なら、自分がおかげを受けなければ出来ませんもんね。大事にしようと思うても、大事に出来ません。ね。なるほど、心で大事にするという事は出来ません。なんと言うても、やはり、そこに難儀な人があるならば、その難儀な人が救い助けれるだけの力がなからなければ出来ません。如何に大事だと思うても。それからと言うて、ほんなら、自分を犠牲にしてなどというけれども、そういう事も、どうかと思う。ね。ただ、犠牲という言葉は、どうか知らんけれども、今日は、ね。始末、倹約をするという事も、ま、一つの、ま、犠牲かもしれませんけれども、始末、倹約してから、ね。そして、人を大事にしていこうというような、私は、精神。そういう心が神の機感に叶うと思う。そういう心が、自分の心のなかに育っていく。段々、そういう心が、ね。有難いと、心得させていただいての信心をしなければいけない。
先日、あの、野口つぁんがお届けをしておられた中に、何か、立派なその、やっぱし、血統正しい犬だろうと言うておられましたが、立派な犬だけれども、何か、自動車にはねられて、その、ガタガタ振るいよる。動ききらんでおる。それで、家からあの、ご飯を持っていってやったり、お魚に汁をかけてやったり、わざわざ暖めてから、その持っていってやったり。ところが、食べる力も無いごとある。ね。それから、その、与えて帰って、それからまた、あくる日、んー、どげんなっとったじゃろかと思って、あの、見にやらせていただいたという、あのお話をね、聞かせていただきながら、その、後からまた見に行かれたという、そこば聞きながら、私は、もう偉い感動しました。ね。もう、そん時にやりっぱなしじゃなくてから、あと、また見に行くと。また見に行って、どうなっとるだろうかと、ね。私は、それが神心だと思う。ね。そういう心がです。私共の心の中に、それこそ、人を押しのけてでも、先ず自分が、ね。助からんならんという助かり方で助かったのであっては、必ず、それは努力をするから助かりもしましょう。例えばそれが、お金で言うならば、お金も儲かりましょう。けれども、必ず、着膨れになります。ね。まん丸なっとる、着膨れして。そして、自分の身体すら、自由が利かんごとなっとる。ね。それでは、例えば、如何に人が大事だと分かっても、人を大事にすることすらも出来ません。ね。信心によって、段々、おかげを頂いて、ね。そのおかげを頂いてまいります、その、んー、ね。犬にご飯どんやるくらいならば、別に、わざわざ、その、あー、家の経済が、あー、それで困るというような事もない。ね。そこに、やはり、かわいいと思う神心を出させて貰うて、ね。ここは、まあ、人もわが身もみな人ですけれども、例えば、ね。その犬の上にも、いわゆる、宗教的深い心を使うておられる。私の兄弟に、えー、お兄さんですか、妹さんがおられる。若くて亡くなられた。ふと、自分が思うた。いつか、親先生が、猫は嫌いだといいながらも、ね。猫が、夜中にこう、あの長うなって寝ておる時に、ぽんと蹴って行こうかと思ったけれど、ひょっとして、この猫が、私の、亡くなった弟の生まれ代わりかも知れんと思うたら、その猫が、なんかかわいい気がしたという話を思い出させてもろうて、ひょっとして、この犬が、姉の生まれ代わりかも知れんと思うたらと言うておられます。こら、宗教によって育てられた神心なんです。ね。犬猫の上にでもです。そういう心が使えれる心が育っていくことが、有難いじゃないですか。ね。ですから、ましてや、それが、人間の難儀を見たときにです。その難儀を救わなければおかれん。助けなければおかれん。そういう心が募ってくる。けれども、そこに、自分に力がないと出来ませんから、ほんなら、自分の身は、犠牲にという事ではない。始末、例えば倹約させていただいてでもです。こら、犠牲という事にはならん。信心させて頂くものは、そらもう当たり前。ね。自分は食べるものも食べずしてというのじゃなくてです。ね。例えばほんなら、私は、ね。うどん屋の前で食べじゃった。けれども、そら帰って頂かれるというのですから、食べ物を食べんという事じゃないのです。そういう、ちょっとした心掛けを、私共が持っていかんと、信心の良い心が育たんのです。いざ、助からなければならない。ここで、助けさせてもらわにゃならんという時に、人が助からん、それでは。
私は、昨夜、えー、久富先生と二人でお風呂へ入らせていただいて、お風呂の中で、必ず、御祈念致しますからね。そしたら、神様からお風呂の中で、次々と、おー、お知らせを頂くんです。二、三日前、観念をお供えせろという御理解を頂きましたですね。私が、糖尿病と医者は申します。だから、ま、医学の上では糖尿病に違いはありません。ですから、糖尿病になりますと、いろんな、糖尿病で死ぬる者はおらんけれども、ほかの病気を併発して、その病気で死ぬると言われていますね。ですから、皮膚病なんかが出来ましたら、もう治らないと、糖尿病の人は。私がもう、二年ぐらい皮膚病で、ま、悩んでおりますけれども、悩んでおるというほどしのことじゃないけれど、おー、治らないです。そして私はね、お風呂の中に入ってから、ははー、ここんところの観念がお供えできたら、例えば、糖尿病であっても、その皮膚病が、一遍に治るだろうとこう思うたです。ね。私がその、観念の中にね、糖尿病だから、私の皮膚病は治らないのだと言うものがあるわけです、観念なんです。だから、この観念が取れたら、ね。たちどころに治ることだろうと、こう、私は思わせて頂いたら、御神願にね、こう、松という字ですね。松という字。その木偏の、点々のないとを頂いた。こうやって、こちらを公と書いて。松という事にも、意味がありましょうね。ここでは、いわゆる、松の信心と言われておりますから。その松の信心の、この、点々がないから、こう、プラスという事になりますね。そして、横はこうやって、公という字が書いてあります。私共が、限りなく信心の進展を願う、ね。より、言うならば、大きな信心を頂きたい。大きな、あー、深い、ね。広い。段々、大きな信心をさせていただきたい。ね。大きな信心させてもらや、勿論、おかげも大きくなってくる。ね。けれども、なら、大きなおかげばいただかんならんから、大きな信心しようと言うて出来るもんじゃない。やっぱり、信心も段々育ってくることである。ね。ただ、そのお知らせを頂いてから、御理解に頂く事がですね。えー、大きな信心と。ああ、そしたらね、どういう事だろうかと、ほんに思いましたらね。神様から明暗という事を頂いた。明暗。明るいと暗いという事。ね。そして、御理解にです。ね。なるほど、今、お前が言っておるように、ね。糖尿病だから皮膚病が治らないと観念の中にあるんだと。だから、ほんなら、ここに、その観念がなくなったら、なるほど、たちどころに治るだろう。ね。けれども、そういうようにです。私共が、観念、そういう観念が、ね。いただけるという事になったら、何時も明るいことばーっかりだという事です。ね。昼もなからなければ、夜もない。これは、まあ、天地の道理なんだ、ね。昼があってよし、夜があってよし。私共は、一生、こういう明暗の世界をたどらせていただくのだと。いうならば、修行は、何時の時代でも、どんなにおかげ受けてもあるんだという事。ね。そうすると、ほんなら、私は一生、なら、その、皮膚病で悩まねばならんかというと、いな、そうではない。そこから、信心の道というのが着いてくるのである。ね。なるほど、ね。健康状態であるという事は、明るいという事であろうけれども、ね。健康ではあるけれども、お金に不自由をしておるとか。お金はあるけれども、そこに、何かですね。一日のうちにでも、明暗と言うものがはっきりしておる。ね。けれども、有難いことにはです。信心させていただく者は、そこを、ただ、暗いとせずに、その暗い時にこそ、日頃自分の頂いておる信心の光というものが、ともし火というものが、灯されて、はー、日頃頂いておる信心の光が、こういう暗い思いをする時に、赤々と、ね。灯すことができるという事が有難いのである。ね。これはもう、明るいとき以上にです。暗い時に、ね。いわゆる、暗いところに光を頂くように、ね。その光の、いよいよの有難さというものが合う。ね。なるほど、明暗がなからなければならない。明暗があって、自然の道理に合うた。しかもそれは、一生続くのです。それもしかし、同じことだけではなくてです。ね。例えば、私の病気なら病気というものがです。それを修行として頂く時にです、有難い。それもまた有難い。いわゆる、おかげを頂く道は、そこから着いてくる。その事が有難いと分からせて頂くときに、その事が、たとえば、病気であるならば、全快のおかげという事になってくる。それは、観念のお供えは出来なくってもです。だから、例えば、そういう観念が、もう、すっきりと出来るという事は、先ずもって、人間出来ないことはない。ただ、一生、それに取り組んでいくという事だけのこと。観念のお供えをせろというけれど、先日頂いたけれどもです。その、観念がです。ね。段々、垢抜けをしてくる。段々、向上してくる。ね。そこからです、そんなら、明暗というものが何時も伴う。その明も有難いけれども、また、暗も有難い。明るいことも有難いけれども、暗いことも、また有難い。そこに、信心のともし火が灯るから有難いのである。ね。そこんところを、信心がないならば、どういう事かと言うと、明の時にはもう、それこそ、着膨れするごたるおかげいただいとるかと思うとですたい。さあ、動きがとれんごとなったという時に、もう、そのすべすらが分からないのである。ね。そこに、日頃、信心させて頂いておかなければいけない事が良く分かります。人間の、ね。一生の中には、まあ、一日の中にでも、その明暗というのは必ずある。ね。けれども、明るいことも有難いなら、また、暗いこともまた有難いのだ。いや、むしろ返って有難いのだ。こういう時に、日頃の信心がもの言うのだと。ね。して見るとです。私共が、例えば、ね。わが身が大事じゃないものはありません、ね。そら、誰よりも、彼よりも自分の身が一番可愛い。だから、自分が助かってしまわなければならないという事はです。自分が、ね。もう本当に、明るいところだけに出てしまわにゃならんという事でなく。その明暗をも一緒に、明暗の中にです。ね。明も有難いなら、暗もまた有難いという、助かり方というか、ね。そういう、私は、心の状態でありますならです。私どもの信心によって、いつでも、自分の心の助かりを、そのまま、人の上に持っていくことが出来ることになるのじゃないでしょうか。ね。一人しか助けきらん力。二人しか助けきらん力。それが、段々、その差はありましょう。けれども、それが段々、大きな力になって行くというところにです。ね。これは神様の願いとも思われます。同じ子供の中に、例えば、屑の子がおれば、屑の子ほど可愛い。ね。雨しぼたれになって、もう、今にも息を引き取るように、まあ、夕べは、どげん寒かったじゃろか。ね。布団も着らずに濡れながら、ね。この一夜を明かして、もう息絶え絶えのその子供を、わたしが、それを抱きかかえて、助けようとしておるという事がです。ね。日頃、例えば、うどん一杯でも、ね。始末、倹約されるところはさせて頂いておる、力を蓄えておるから、それが出来るのです。同時にまた、ね。とにかく人を助けると言うてもです。自分が助からなければ。自分がおかげば頂かなければ、人は助けられん、と言うて、そういうとったら、いつまでたっても、本当の助かりと言うものはありません。何故って、私共のいき方の中にです。必ず、明暗というものがあるから、ね。そん、暗い所がなくならなければ助けられんという事じゃない。その暗いところもまた、有難いという信心。ね。例えて申しますなら、今、えー、古谷さんなんかの、場合なんかはです。ね。もう、それこそ、目の前が真っ暗なるような難儀に直面しておられるわけですね。ご主人の病気のことで。ね。そして、もう、本当に、福岡から、毎朝こうやって、朝の御祈念に参って見えられる。ね。しかももう、十何日でしょうが、断食をなさっておられます。それでも元気一杯。どうしてこういう力が自分にあっただろうかと思いなさると、こういう、真っ暗い中にです。もう、今まで、過去に何十年間の信心が、相すまじゃった事で、もう、本当に、もう、それこそ、ハンカチが、ぐしゃぐしゃになるぐらいに、その、相すまじゃったことに対しての、お詫びが出来ておられます。ね。そして、心はもう、本当に暗いけれども、信心の光によって、何時も、心のなかは、光が輝いておるといったような感じ。今は、なんと言ったって、古谷さんの信心が一番じゃろと言うて、私は、夕べ、え、昨日、昨日は神愛会でしたから、先生方の会合でした。で、まあ、ギリギリのお話が出ましたが、そのなかで申しましたことでした。なるほど、難あって喜べとか、難はみかげと仰るが、確かに、難はみかげだなという事。信心がないなら、難は難ですけれども、それは、目の前が真っ黒なるような難ですけれども、信心を頂いておられたおかげでです。その難が、ね。それが、暗いものどころか、むしろ有難いもの。主人が病気し取るとが有難いというのじゃないですよ。その事は、大変な苦しいことなんだけれども、その苦しいこと以上に有難いものが、その事によって、頂かれるという事がです。ね。いわゆる、明暗というならば、暗の中にあっても、日頃の信心のともし火が、そこに灯されているという事がです、ね。信心を頂いておったという事の有難いという事。ね。ですから、助かってしまわなければ、人にも話されんとか、人を助けることが出来ないとかという事じゃありません。ね。この頃からは、虹ノ松原を通らせていただいたら、松がどんどん枯れよる。ね。その松ノ木一本の上にでも、どうぞ、行って、御神水、お神酒さんでもかけてあげたい様な気持ちがする。ね。けれども、出来んから、お取次ぎを頂いて、どうぞ、あの松が、虹の松原のあの松が、また、生き生きとしたおかげを頂くようにというのを願う。お取次ぎを願われる中に、ご主人と同じ病気で入院しておられた方が、大変な状態であった。それが、毎日、やはり、お日届けをなさる。おかげで、先日、大変なおかげを頂かれた。ね。最近では、あの人のこと、この人のこと、とても、ほんなら、古谷さんの、以前の例えば、信心の時代に、とても人の事の段じゃなかったのです。ね。ところが、自分自身が、あの暗い中に入って初めて信心の光の有難さが分からせて貰うて来たらです。今度は、それこそ、自分の主人も大事だけれども、横に寝て、ベッドに寝ておられるその方もまた大事だという事がですたい、出来てきておかげを頂いて退院のおかげを頂かれるというほどしのおかげになって、現在、また、お取次ぎを願って、お願いなさっておられる方もございますけれどね。どうですか、ね。自分方の主人が助からなければ、助けられんという事じゃないことが分かるでしょうが。それが信心なんです。ね。ですから、信心によらなければ出来ることじゃない。ね。ね、ただ、ね。普通で言う、あの、慈善事業とか何とかといったようなものは、そんなものはね。もう、それこそ、着膨れしとるとどんがしよるとぐらいな事は、大した神様のお喜びになるこっじゃないです。本当に助かりになるはずもありませんです。ね。信心によって、ね。むしろ、ね。おかげを頂けばいただくほど、身軽うならせていただいて、あちらに飛び、こちらに飛び回ってでもです。ね。人の身が大事であるという、そのところに立たせていただいて、ね。人の身を大事にして行くという事は、その人を助けて、助かってもらうといういき方、ね。縁ある人が、全部助かっていくような働きになってくるおかげこそ、わが身も大事であると同時に、人の身もまた大事であると分からせていただいた、いわば、現われが、そういう事になってくるのだというふうに思うのです。ね。むしろ、明るいときよりも、暗いときのほどです、人を助ける働きというようなものはです。信心によって致しますと、古谷さんの例をとりましたように、ね。返って出来るもの。出来なければ、また嘘なんです。ね。そこが分からせていただいて、今度、明るくなった時には、だから、より、そこの働きが十分に発揮できることになりましょう、ね。人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみな人。それが分かっただけではいけません。分かったならば、やはり、その人の身も大事にして行くところの働きがなされなければならんのですよ。ね。どうぞ。